todojunの真理を追究する日々

日々考えていることなどを徒然と書いていきます。

 自衛の手段としての勉強

id:TEPH君のエントリに、実に興味深いことが書かれていたので(id:TEPH:20051119:p4)、ちょっと取り上げてみます。このエントリは、僕が昨日書いた文章(id:todojun:20051120:p1)と非常に関連している事柄ではありますが、テフ君の方が先に文章をアップしていますし、僕も自分の文章を書いている最中にテフ君のこの記事を発見したので、どちらかがどちらかに触発されたわけではなく、偶然同じタイミングで似た文章を書いたということになります(たぶん)。
次の部分は、昨日僕が書いていたことを非常にわかりやすく説明しています。

専門的な内容に限らず、しばしば自分が一般に何らかの勉強をしている時に、誰かに議論で打ち勝とうとするために、あるいはいかに自分が知識、学力において勝っているかをひけらかすために)勉強しているのではないか?と思える時がある。もちろん100%そんなことを考えながら勉強していることなど有り得ないが、心の片隅に無意識のうちにそうした意識が入り込んでいる時がある。例えば、歴史や経済の勉強などは自分にとってはかなりの部分がそういった邪心から動機付けられている気がする。

ここで僕が注目するのは、「心の片隅に無意識のうちにそうした意識が入り込んでいる時がある」というところです。意識しないとなかなかこれは自覚できないことだろうし、仮に自覚できたとしてもそれを見つめるのは結構怖いことだと思います。なんだかあまりよろしくないことに動機づけられているなんて思いたくないですしねぇ。でも、時折は自覚的にならないと、心があらぬ方向に行ってしまう可能性も否定できないと思うのです。
ただ、昨日の文章の補足にもなるのですが、「自衛の手段としての勉強」には非常に大きな価値があると思うし、それは積極的に捉えられるべきものだと思います。特に義務教育での勉強の大部分は(理想的には)この意味での勉強になるのではないでしょうか。社会を生きていく上で、嫌な人たちにもこれから沢山出会うことになるでしょう。そういう人たちの悪知恵に騙されないように、そして彼らの論理性をまとった悪意のある発言に対抗できるように、最低限の知恵は身につけておかなければならないと思います。これは、よく生徒が発する「なんのために勉強するの?」という問いに対する1つの答えになっていると思います。まぁ現状の義務教育において、この意味での教育が達成できているかと言えば相当疑問符のつくところではありますが。
ところで、昨日と今日の文章に関連して、先日買った「エミール」に非常に示唆的な文章が載っていたので引用しておきます。この「エミール」、至るところに共感する部分があるのですが、下記に挙げるのはそのうちの1つです。

人生のもっとも危険な期間は生まれたときから十二歳までの時期だ。それは誤謬と不徳が芽生える時期で、しかもそれを絶滅させる手段をもたない時期だ。そして、その手段が手にはいったときには、悪はすでに深い根を張って、もはやそれを抜きさることができない。
(中略)
初期の教育はだから純粋に消極的でなければならない。それは美徳や真理を教えることではなく、心を不徳から、精神を誤謬からまもってやることにある。
(中略)
こうして、はじめはなにもしないことによって、あなたがたは素晴らしい教育をほどこしたことになるだろう。
             「エミール」(岩波文庫)p132〜p133