todojunの真理を追究する日々

日々考えていることなどを徒然と書いていきます。

 2つの異才(1)〜fer-matさん〜

数あるブログの中でも、僕が特に気に入っているのがid:fer-matさんとid:eflat92さんのブログです。2つとも以前に紹介したことがあるのですが(id:todojun:20050607:p1、id:todojun:20050825:p1)、やっぱり素晴らしいということで改めて紹介することにしました。いつも思うのですが、本当に素晴らしい!(本物だ!)というものは、飽きることなく色褪せることなく、常に素晴らしいものなんですね。
fer-matさんの文章には、教養が満ち溢れています。「教養を身につけるというのはこういうことなんだよ」ということが非常によくわかります。教養学部でやるべきことは、簡単に言ってしまえばこのような文章を書けるだけの教養を己自身の中に蓄えることであって、試験で好成績を取ることではない、ということがよくわかります。fer-matさんが、教養学部時代にどの程度の成績を取られていたかはわかりませんが、どんな成績だったにせよ、僕のfer-matさんに対する評価は全く変わりません。そういったものに捉われるのは実に下らないことだと思います。客観的な評価を与えるという意味では、多少の価値はあるかもしれませんが、本当に教養があるかどうかは、会話をしたり文章を読んだりすればわかることです。専門的な能力、ということになるとまた話は変わると思いますが、少なくとも教養の有無についてはこのように判断できます。
大辞泉によると、教養とは「学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力。また、その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動」とあります。これを見ても、教養のない人、もしくは教養の必要性を感じない人(両者はほぼイコール)にとっては、「ふーん」という感じでしょう。しかし、ある程度の教養のある人、また教養が大事だと考えている人(両者はほぼイコール)にとっては、「うん、うん、そんな感じ」と思われることでしょう。このような人たちに対し、青年期から成人期にかけて何にも優先して獲得しておくべきものはと問えば、この教養が挙げられることでしょう。それ程、教養を身につけることが、人間形成の上で大事なものであると思っている、ということです。この重要性の認知は、教養の有無におよそ比例するものであると考えられるので、教養のある者はますます教養を豊かにしていくし、教養のない者はますます教養をなくしていく、ということになってしまいます。
僕自身は、自分で言うのもおこがましいことではありますが、ある程度の教養は持ち合わせていると思っています。少なくとも、教養の重要性を認知しています。常に自分自身を磨いて高めていこう、という思いを持っているし、それは自分の中の教養をさらに豊かにしていくということとほとんど同義です。まっとうな社会人として、そして教育者として、最低限の教養は持っていたいし、教養の必要性は常に認識していたいです。逆に言えば、教養のない人、教養の大切さがわからない人には教育者になってもらいたくないです。生徒の人格形成に少なからず関わる教育者にとって、教養は身につけておく必須事項だと思います。
fer-matさんのブログの話に戻します。fer-matさんの文章には、他の教養人にはない個性が感じられます。教養が各人の人格や人生経験、境遇に深く結びついていることを考えれば当然のことと言えるでしょう。その個性の中で僕が特に注目しているのが、法学的な視野です。僕の勝手な偏見ではあるかも知れませんが、普通の理系人にとっては法学はあまり馴染みもなく深く追求したことがないように思われるし、多くの法学徒は理系の素養に乏しい気がしています。そういう意味では、深い理系的・数学的素養の下に法学を論じているfer-matさんのような人は、稀有で貴重な存在だと思います。
今の大学教育は、教養学部においてさえも、このような学際的な知識と教養を身につけるのに適した形態になっているとは思えません。東大の教養学部においては、最も教養を身につけることに関心が高いと思われる文科三類の学生が点数競争に晒され、自分が進みたい学部・学科によっては、自分の興味のある講義ではなく点数の取りやすい講義を取らざるを得ないという不幸があります。そして、最も教養を身につけることへの関心が低いと思われる(失礼)文科一類の学生は、点数の制約がほとんどないのでモチベーションが上がらず、教養を身につけることなく教養時代を過ごしてしまうという環境があります。これは、どちらの学生にとっても本当に不幸な話です。東大の教養学部の問題はこれだけでなく非常に多岐に渡るので、これ以上ここでは触れません。思うに、ここに大組織の弊害と限界があるのだと思います。(教養について詳しくは、立花隆さんの著書を参考にしてください)
また話が逸れたので、fer-matさんの文章の話に戻します。fer-matさんの文章は「本物」です。ここでいう「本物」は、多分に感覚的なものなので説明しづらいのですが、あえて言葉で表現すれば、「人間の魂に訴えかける、真理に基づいている」ということになるでしょうか。真理の下に生きている人特有の輝きがそこには感じられます。僕の感覚では、英語のgenuineという言葉が非常にしっくりきます。
こういう「本物」に沢山触れていると、「本物」とはどういうものか、が感覚的にわかってきます。「本物」を見極める目がついてきます。世の中にはあらゆる分野において「本物」が存在しますが、それらに共通するものが直感的にわかってきます。「本物」に出会ったときには、それ特有の不思議な心理状態が生まれるのですね。心の底からの深い感動、「これだ!」という直感とともに感じる深い感慨、色んな言葉で表されるものだと思います。もちろん、ただ単に「本物」に出会えばいいわけではなくて、自分自身もそれ相応の水準になければいけません。例えば、小さい子にfer-matさんの文章を読ませたところで、その偉大さはわからないでしょう。幼い子にとって重要な「本物」とは、本物の愛、無償の愛でしょう。これが人間信頼を身につける基本となり、人間に関する色んな「本物」を受け入れる基礎となるものだと思います。青年期から成人期にかけては、数多くの「本物」から刺激を受けつつ、自分を磨き、教養を身につけ、さらに多くの「本物」に対する感受性を高める。これが人間的成長の本質的道筋ではないでしょうか。
みなさんも、fer-matさんによる「本物」の文章に触れてみてはいかがでしょうか。
fer-matさんのブログ:崩壊家庭地方底辺校出身東大生の意見