todojunの真理を追究する日々

日々考えていることなどを徒然と書いていきます。

 心が汚れないように気をつけていること

僕が生きる上で大切にしている原則に「心が汚れないようにする」というのがあります。心が汚れてしまうこと、素直でなくなってしまうこと、人間に対して純粋な気持ちで接することができなくなってしまうこと、に対する恐怖心は非常に大きいものがあります。心の純粋さを失ってしまったら、もう自分は自分でなくなってしまう、と思っています。なので、自分(僕)の心を汚すようなことを平気でするような人に対しては、正直嫌悪感を抱いてしまいます。僕は、多くの事柄に関しては相当寛容であるとは思っているのですが、このような行為に対しては強い憤りを覚えます。「よく平気で人の心を汚すことができるなー」と。人を(精神的に)傷つける行為というのもこれと同じように最も許せない行為に分類されます。人間誰しも完璧な人ではあり得ないので、自分が気がつかない間に人を傷つけてしまうことはあるでしょうが、そのような自覚や内省があればよいのです。その辺の事柄に無頓着で、(無意識にせよ)悪意の下に人を傷つけたりする行為を繰り返すことが問題だと考えているのです。
僕も24年間生きてきましたから、当然このような「悪意の人」には結構遭遇してきました(もちろん大多数は「いい人」です)。そのような人は、こちらが「いい人」でいると、どんどん傷つけるようなことをしてくるので、ある程度こちらもしっかり主張しなければいけません。そうしないと、こちらが一方的に傷ついてしまい、それはそのまま心が汚れることにつながってしまいます。なぜなら、「傷つけられる」という経験は、「憎しみ」という感情や「仕返し」という意識を生み出すからです。結局、自分が人を傷つけてしまう「悪意の人」になってしまいかねません。なので、「いい人」(=「心のきれいな人」)でありたいと思っていても、人間との関わりで生きていく以上、(人に心を汚されないための)このような自衛の手段は身につけておかなければなりません。
さて、本題はここからになるのですが、今述べたのは「人が自分の心を汚そうとすることから身を守る」ということでしたが、もう1つ「自分自身が自分の心を汚さないように気をつける」ということを考えなければなりません。心が汚れる原因は、人に汚されるか、自分自身で汚しているかのどちらかしかないからです(人為を越えたところで心が汚されることはまずない!例えば天災など多くは運命だと捉えられる)。前者は先ほど説明した通りで、具体的には女性に対するセクハラなどを考えてもらえばいいと思います。セクハラによる精神被害を受けた人の多くは、自分が汚れた人のように考えてしまうようです。それでは、後者は具体的にはどのような事柄が該当するでしょうか。
「自分自身で自分の心を汚してしまう」1番大きな事柄は、「やりたくないことをやる」(自分の意志に背くことをやる)ことだと思います。自分から「やりたくないことをやる」人なんているのか?と思うかも知れませんが、自分が本当にやりたいことを犠牲にして、他の人のために尽くすような人は、世の中に沢山います。度が過ぎると善意の押し売りになってしまうところに注意しなければなりません。ただ、ここで述べたいのは、そういう人のことではなくて、普通に社会に生きる人が「やりたくないけどやらなきゃならない状況」に遭遇したときのことです。学生だったら、やりたくない勉強がそれに当たるだろうし、社会人であれば、やりたくない仕事がそれに当たります。そういう意味では、厳密には「自分自身が」心を汚してしまう、とは言えないかも知れません。
なぜ「やりたくないことをやる」ことが「心を汚してしまう」ことになるかというと、それが「見返りを求める」ことに容易につながるからです。問題なのは、それに対して「見返りが返ってこない」ときで、それでも「見返りを期待してしまう」ところから、心が少しずつ汚れていってしまうのだと思います。このことを考えると、仕事においては「賃金」という「見返り」が基本的に保証されているので、単純にやりたくない仕事をやったところで心が汚れてしまうとはいえません。ここで問題にしたいのは、やりたくない勉強のように、見返りが保証されないものの場合です。やりたくないだけならまだしも、やることに意味さえ感じられない勉強なんかは、何らかの見返りを期待できないとやってられないでしょう。
そうは言っても、どうしても自分の意志に反してやらなければならない時はあるでしょう。僕も、なんでこんな苦労して勉強しなきゃならないんだ、と思ったことは幾度となくあります。それでもやらねばならないときには、心を汚さないように次のようなことを自分の心に確認します。「自分がこれから苦労して勉強することは、決して意味のないプライドを身につけるためではありません。自分から選択し、自分の意志で行うことです。」。きちんとこのことを自分の心に刻んでからでないと、勉強を始められません。これをきっちり確認してから勉強を始めれば、仮にこの勉強が後々何かの役に立つということがなかったとしても、その責任をどこか自分以外のところになすりつけるということもなくなります。自分の内に邪悪な心が生まれそうになるたびに、このように自省していれば、心が汚れることを最小限に抑えることができると思います。逆に言えば、そこまでしないと、簡単に心がダークな気持ちに汚染されてしまうものだと思います。もちろん、このような自省を頻繁にやっているようでは、自分の心の負荷がどんどん大きくなるだけなので、なるべくなら「やりたくないこと」は生活の中で少なくしていきたい気持ちは大きいです。自分が歩もうとする環境を選択する際には、どれだけ「無意味につらいこと」をやらないでいられるか、ということが一つの大きな観点になると思います。
それにしても、無意味な(主観)勉強の強制の弊害は非常に大きいものだと思います。「この勉強をしていて楽しい?」→No、「じゃあ何かの役に立つ?」→No、「誰か他の人の幸せに貢献できる?」→No、「それじゃあ、この勉強をしなかったら誰かを不幸に導くことになる?」→No、「じゃあ何のために勉強するの?」→I don't know。これで心が汚くならないわけないでしょう。もちろん、勉強に限らず、同様の質問に同じ回等が得られるような事柄だったら、同じように心を汚すことになってしまいます。これこそ、社会に蔓延している教育の最大の弊害だと思います。その弊害を最小限に抑えるために、上記の質問のどれか一つにでもYesと生徒が言えるような教育を心がけていかねばならないと、強く思います。
こんな長ったらしく述べなくても、自分の本当にやりたいことをやっている人に悪い人はいない、というのは多くの人が感じるような真理でしょう。できるだけ多くの人が、無意味な強制から解放されることが、幸福な社会の要件ではないかと思っています。