todojunの真理を追究する日々

日々考えていることなどを徒然と書いていきます。

 断定的に書く

小中学校くらいの頃、文章を書くときは断定で書くように!、「と思う。」「と思います。」などを頻繁に使ってはいけない、ということを言われた気がします。その当時は、多少の違和感を感じながらも、その通りに従って書いていたのですが、今考えると少なくとも前者に関しては明らかにおかしいですね。自信がないときには、どうしたって断定口調で書くことはできないでしょう。高校くらいのときには、「と思う」「と考える」「と感じる」などと使い分けて、なるべく文末が重複しないように工夫しながら断定を回避(断定の対義語ってなんだろう)していました。
思えば、義務教育時代の国語教師の多くは、中身よりも体裁を大事にしていた気がします。上記のようなこともそうだし、文末は丁寧語を使うか使わないかで固定しろだとか(これは一般の本にもよく書いてある)、文章の添削でも中身よりも表現などに対する指摘が多かった気がします。
実際にブログなどでたくさん文章を書いてみて(もしくは人の文章を読んでみて)感じたことですが、丁寧語のなかに普通の言葉(これもなんと呼ぶのだろう)が混じっていても、たいてい気にならないし、逆に生の感情が伝わってきてよいときも多いです。文章が、書き手が読み手になんらかのことを伝える手段だとすれば、こういった体裁にこだわるのはナンセンス(死語?だとしても使いやすいから使います)だと思います。統一感が気持ちいいということでしょうか。
文章の添削で1番記憶に残っているのは、なんらかの論理的な文章を書いたときに、「よって」という言葉を使ったことに対して、「『よって』なんて、数学の証明じゃないんだから」のようなことを言われたことです。普通に考えて、AならばB、BならばCが言えたことから、依って「AならばC」が言える、と書くのは自然じゃないでしょうか。「現代文」における授業で、数学(論理学)の証明によく使われる言葉を使ってはいけない理屈があるでしょうか。こういった不自然だったり引っかかる発言などをすると、それはそれは聞き手の心に残るものなので、教師になる人もそうでない人も、この点には注意しておくべきでしょう。
表現に関していえば、できるだけ言いたい事柄が率直に伝わる言葉を選ぶべきでしょう。もちろん文学的な文章では語感を含めてもっと吟味する必要もありますが、そもそも国語教育では、文学的な文章を求めているのでしょうか?もし文学的な文章を学ばせたいなら、芸術として音楽や書道などと同じ範疇に含める方がよいのではないでしょうか。中身が伴わずに表現だけが中途半端に先走った文章は、そのアンバランスさがゆえに余計に印象が悪くなってしまいます。もちろん多少の背伸びも必要とは思いますが。
どこかの本に書いてあったことですが、国語教師は文系出身が多い(というかほとんどな)ので、まともに論理学や数学をやっていない人が多くこのようなことが起こる、ということでした。うーん、納得。そもそも「国語」なんて、教師が自分の解釈を述べるだけで、これじゃあ聞く側にとってみれば、後に何も残りません。しかも、論理的な文章(論説文)ならまだしも、小説なんかでこれをされたら聞く気にもなれません。少なくとも、生徒からの感想・意見などを紹介し、それについて解説を加える、という形を取って欲しかったです。
義務教育(時代の授業体験)に関してはかなり不満はありますが、こうして考えると「国語」も予想以上に不満が残るものでしたね。ここでは教育が主題ではなかったので、また別項でも取り上げることにしましょう。
長くなりましたが、主題に戻ります。僕はあまり断定的に書くことが多くないですが、それでも最近は意識して断定を多くしようと心がけています(まだ少ないですが)。確実とはいえなくとも、自分の信念のようなものに関しては、断定にすることでその思いも伝えよう、と考えるようになったからです。これは、どこかの書評にあった、「言い切る形というのは、読んでいて気持ちいい」という言葉に刺激を受けたものです。
もし、それが事実であると言えない限り、断定を使えないのであれば、ほとんどの意見は断定で言い切れなくなり、読んでいても自信のなさ、歯切れの悪さが感じられる可能性があります。厳密さを要求しないような文章だったら、勢いで断定にしてもよいと思います。
というわけで、今後僕の文章を読むときに、断定だからといって、なんでそこまで断定できるんだ!みたいなツッコミはなるべく避けてください(笑)