todojunの真理を追究する日々

日々考えていることなどを徒然と書いていきます。

 個性、独創性という呪縛

先日の「教師論」の講義で、小国先生が、(人々は)「独創性にとらわれすぎているのではないか」ということを話していました。先生としては軽く発した言葉だと思うのですが、僕はかなり深く考えさせられました。
個性とか独創性、人間の評価がこのような基準で語られるようになってきている、という印象を僕は感じます。「個性のある人が素敵だ」「独創性のあるものこそ素晴らしい」このように思っている人って、案外多いのではないかと思います。僕は、ある部分ではその意見に賛成で、ある部分では反対です。
どういうことかというと、個性があったり独創性があること自体は褒めてしかるべきだとは思うのですが、もし個性や独創性自体が目的になっていたのだとしたら、それは安易なことだし危険性を秘めているのではないか、ということです。特に、個性というのは、その人間自身が磨きに磨かれた状態ではじめて自然に立ち現れてくるものだと思うので、自分自身を磨きもせずに狙って出した個性というのは、人々の感情を揺さぶるような本当の個性とは程遠いものだと思います。
僕自身の経験からの例を書きます。僕は長いこと音楽を聴いてきているので、どういう曲が自分に訴えかけてくるのか、自分にとって良い曲とはなにか、ということはだいぶわかってきています。その中の1つの要素、とても重要な要素に、ミュージシャンの世界観というものがあります。本当にいいと思える曲(やそれを生み出すミュージシャン)は、必ずといっていいほど、何らかの世界観を持っています。そしてそれだけではなくて、(これが大事なのですが)その世界観というのが、それを生み出す者の人間性を感じさせるのです。実は、僕が音楽を聴いて感動するときは、そこで感じられる素晴らしい人間性に感動している、という要素が非常に大きいのです。だからこそ、そういったものを感じさせやすい、ヴォーカルの入った曲や、日本人の曲(唄)が特に好きなのだと思います。
おそらくここでの世界観というのは、ひたすら自分という人間に向き合ってこそ出てくるものだと思うのです(バンドだったら、各人のそういったものの融合や調和点として)。ただ単純に安易な気持ちで個性を出そうと思ったりしたところで、恐らく薄っぺらな世界観しか出てこないでしょう。おそらく、こんなことは「芸術家」にとっては常識のことだとは思うのですが、悲しいことに日本では芸術の価値が軽んじられている気がします。どれだけの人が、本当の芸術の価値を感じているのかは気になるところです。上記の視点から見て、非常に素晴らしい芸術家(僕がよく知っているのはミュージシャンだけですが)が日本にはたくさんいるということを、多くの人に認識してもらいたいです。
話がそれました。つまり、個性や独創性を出そうとするなら、まずは人間性を磨くことが大事で、人間性に基づかない個性というのは、人々の感情を(真に)揺さぶる力はない、ということです。
別に個性や独創性が感情に訴えかける必要ないじゃん、研究だってビジネスだって、独創性が大事でしょ、という人がいるかもしれません。確かにそうです。僕が今まで書いてきた文章には1つの前提を付け加えなくてはいけません。社会人としてではなくて、人間そのものの魅力としての個性、独創性ということで考えてください。
しかしなかなかこれが難しいんですよね。僕だってせっかくここで文章を書くんだったら、みんなと同じじゃ意味がない、という思いはやっぱりあるんです。そりゃ当然独自性のある文章の方が(社会的に、情報量的に)価値があるわけですから、全く間違っているわけじゃありません。ですが、本当に人を揺さぶる文章を書くには、常に自分自身を見つめ、磨いてきなきゃならんと思うのです。表現の手段が違うとはいえ、文章の書き手と芸術家というのは非常に近いものがあると思うのです。もちろんその分野に関する基本的かつ本質的な技術(文章であれば、自分の思っていることを表現する技術。芸術、たとえば音楽であれば、音楽的な知識など)も必要であることは間違いないですが、人の感情に訴えるにはやっぱりそれだけじゃ全然足らんと思うのです。表現技術をいくら磨いたところで、自分を磨かないとそれまでだと思うのです。表現する技術だけは長けていて、その実が伴っていない人がなんと多いことか。それだったら、表現力はまだないけど、豊かな内面を持った人の方がまだマシです。表現力は学べば身につきますから。そんなわけで、これからも常に自分を磨き続け、なるべく出し惜しみすることなく、自分の思いなどをここに焼き付けようと思います。
長くなりましたがもうちょっと続けます。実は、僕自身の今取っている進路というのは、結構な独自性があるものと思います。まず、東大の工学部で教職課程を取っている人なんてほんのわずかです。工学部が1学年600〜700人位(たぶん)いるところ、今年の教育実習参加者は5人だけです。もし、長野の教員に採用されたら、それこそ非常にレアな進路でしょう。ですが、これは僕自身のことをよく知らない人が、僕のことを語るときに非常に便利なラベルとして用いるものであって、実際には僕自身は、自分が本当にやりたいことはなにか、進むべき進路は何か、ということを(しんどくなるほど)考え抜いた結果として今取っている進路があるわけで、別に特別であることを狙ったわけではありません(もちろん、環境に流されずに自分の道を選んで生きてきた、という誇りはありますが)。「東大出て教師?」と言われるのは(特にバカにしたように言われると)心外ではありますが、自分が望む進路を取れることを思えばたいしたことないことです。まぁ、まだ就職先決まったわけじゃありませんが。。とにかく、自分の独自性を狙ったわけではないのです。そういう意味では、今回の文章の話題につながります。
ふー、疲れました。この文章は、昨日から今朝にかけて読んだ「『東大に入る』ということ『東大を出る』ということ」から大きな刺激を受けています。この本の著者3名に深く感謝します。
呪縛といえば、「評価されたいという呪縛」というのも、今回の話に似たようなものですね。「評価される」ということが目的になってしまう不幸、という話です。機会があれば、こちらもちゃんと書いてみようと思います。
非常に長くなりました。最近は、自分の生きる軸という観点から見て、全ての物事(考えなど含め)がつながっている!という衝撃的な感覚を得ています。だからこそ、1つの話題にいろんな別(に見えるよう)な話が混入してきているわけですが、この境地に至ったことは、どんな社会的評価よりも自分にとって価値のあるものだと思っています。前から何度か書いてきたのですが、「見えてきてる」のですよ。今まで経験してきたことや、考えてきたこと、自分の価値観や世界のあらゆる事象、そのそれぞれのつながり。そして、それに照らしてこれからどのように生きる(べき)かというのが論理的必然性を持って浮かび上がってくる感じ。こんなこと書いたところで似たようなことを経験した人じゃないとわからない気もしますけどね。
うがー。なんかすごいことになってる(笑)