todojunの真理を追究する日々

日々考えていることなどを徒然と書いていきます。

 大学の数学と自分の興味について(過去の文章からの抜粋)

約2年前、僕が学校の勉強についてかなり悩んでいたときの文章(未完成)を発見したので、そこから一部を抜粋してみます。この文章の最終更新日は2003年10月12日となっているので、ちょうど2年前の今頃ですが、僕の記憶によれば、この文章を書き始めたのはもっと前で、3年の夏学期だったと思います(→作成日を確認したら2003年5月1日でした。予想通り)。タイトルは「自分のやりたいことと学校での勉強」です。

知ってる人も多いと思いますが、僕は高校の数学教師になろうと思っています。詳しいことはまた別の項で述べようと思いますが、そういうわけなので、9割が大学院に行く、つまり大学院に進むことが前提になっているような講義に対しては、それなりの心構えを持って臨まなければいけないわけです。どういうことかというと、大学院に行く人にとっては、いま受けてる授業というのは、大学院で数学関連の研究をしていくうえでの基礎になる部分です。なので、たとえ授業がよくわからないものであっても、後々重要になってくることなのでなんとしても勉強しよう、という気になるわけです。しかし、僕のように、その科目が将来必要になってくるかどうかがわからない場合、くだらないと思えるようなことはやりたくないわけです。
しかし、実際にはやりたくない授業でもやらなければいけないときがあります。必修の授業なんかがそうですね。そういうときはその講義を聞いていられるだけの言い訳が必要になってきます。こじつけといってもいいと思います。受けたくもない授業を自分がこうして受けているということの理由がどうしても欲しいのです。おそらく多くの人がそういうことをした経験があると思います。
さて、僕の大義名分ですが、それは「学校での勉強は趣味である」です。(→この後に、自分がそこから何らかのものを能動的に掴み取ろうとする、という意味での「趣味」と書きたかったような気がする。。:現在注)
いまやってることが何かの役に立つかもしれないと思い、なんでもいいからここからなにか吸収できないか、と考えることはとても大切なことだと思います。日常生活でも、自分のやりたくないことをやらなきゃいけない、ということはたくさんあるはずです。いくら自分の人生を思い通りに生きたいからといっても、みながみな自分のやりたいことだけをやっていたら、世の中うまく回っていかないので、どうしてもやらなきゃならないことがあるはずです。そういうときに、そんなやりたくないことからも、何か新しいものを発見し吸収する意志というものが大事になるものだと思います。
話がそれました。僕がいま主に聞いている講義は、あまりに厳密性を重んじるあまり、本質的な部分が見えてこないことがあります。特に無限の概念などがその最たるものです。無限ということを数学的に表現するために、ややこしい数式がたくさん出てくるわけです。高校数学と大学数学(数学という学問)の大きな違いはそこにあるといってもいいでしょう。
僕はというと、数式がずらーっと並んだ大学の数学は苦手(というよりも好きになれない)で、もっと本質的な部分のみに着目した数学をやりたいのです(別に大学の数学を批判してるわけではありません、僕の嗜好にはあわないといっているだけなので、お間違いなく)。なので、僕はこのような講義を聞きながら、こういう数学の世界もあるんだな、できればこれを高校教師をやるうえで活かすことができればいいな、考えているわけです。教育学部を出て教師になったのでは身につかない何かを得ようとしているわけです。
僕はこのような考えで講義を聞いているのですが、他のみなさんはどうでしょうか。好きな講義しか取ってない人には実感のない話かもしれませんが、ぜひみなさんの意見を聞かせてください。

うんうん、やっぱり思っていることの本質は前から変わってないな、という気持ちもありますし、ちょっとここら辺は今と違うなー、と感じる部分もあります。
当時は大学で数学を学ぶ意味みたいなのをよく考えていましたが、最近は当時より数学が楽しくなってきているので、あまりそういうことは考えずに好きだからやっている、と思えるようになってきています。もしかしたら、今学校(学科)から少し離れた位置にいるからかも知れませんね。ある程度の強制的な勉強は、それがうまくいけば非常に効果的ですが、逆に負の方向に働いてしまうと、ただ単に勉強嫌いになってしまうという悲惨な結果をもたらします。それが教育の実態だろうと思います。