todojunの真理を追究する日々

日々考えていることなどを徒然と書いていきます。

 「ゼミをやろうと思っているのですが」(後編)

こちらを先に読むとつまらないと思うので、前編を先にお楽しみください。
さて、ファイルを開いた左側には「何のために生きる?」と書いてあったわけですが、右側にははじめに言っていた8つのテーマが挙げられていました。どれも人生についてのことで、興味のあることではあったのですが、詳しくは覚えていません。「この中でどれに関心がありますか?」と言うので、僕は8番を選びました。「命は地球よりも重い?」というテーマです。これに関連したことを最近考えたことがあったので、他の興味深いテーマは差し置いて、これを選びました。テーマタイトルに言葉を補うと、実際には「一人の命は地球よりも重い?」ということだと思います。
僕は次のようなことを話しました。
もし地球がなくなってしまったら、地球上の命もなくなってしまうので、地球より命の方が大切というのは本質的におかしい。その点を除いたとしても(地球がなくなっても人間に生き延びる道があることを仮定)、命が何より大切だと思わせるこのような命題は肯定しない。もし命が何より大切なのであれば、全ての人間に脈やその他人体異常を察知できるような器具を常に装着し、監視状態におけば、何かあってもすぐに措置を取ることができるので、寿命を延ばすことができそうであるが、自分はその状態を望まないし、多くの人も望まないだろう。なぜなら、そこでは自由が奪われているからである。ただ生きているだけでいいというわけではなく、人間は自由を求めるものである。
8つのテーマのそれぞれについて、自分の価値観に基づいて上のように語ることはできたように思いましたが、あまりこっちから積極的に話しまくるのもおかしいのでやめときました(笑)
さて、他に話したことですが、ホリエモンの話題が出てきました。たしか、「生まれてきてよかった!と言える人はあまり多くなさそう」「幸せな人生を生きている人はあまり多くなさそう」(相手の発言)、というところで、突っ走ってきて頓挫したホリエモンが挙げられたのだと思います。ホリエモンに関して僕が言ったのは次のようなことです。
ホリエモンは絶対復活してくる。どんな形であれ、必ず這い上がってきて、10年後にはまた有名になっているだろう。こんなところで挫折して終わってしまうような人間ではない。ホリエモンのファンというわけではないし、価値観も全然違うけれど、彼のような若い力は今の日本には必要。
まぁとにかく、かなり自分の主張をぶつけまくりました。しかし、それをここにすべて再現することはとてもじゃないですができません。対話は生ものであり、お互いの反応によりダイナミックに展開していくものですが、ここで話した内容を思い出して書いたら、そのようなダイナミズムは圧倒的に失われてしまいますから。もし本当にリアルの会話のダイナミズムまで感じて欲しいのであれば、podcastingするしかないと思います(次善案は、録音したものを一字一句そのまま書き起こすこと)。やはり、生の会話を大切にするためにも、録音機材(という程仰々しいものでないが)を常に携帯していたいものですな。
さて、相手の方は、親鸞の「教行信証」という本の話を持ち出し、ここに人生の真理が書いてあり、それをゼミで学んでいきたい、ということを言っていました。そこに書いてある人生の真理についてちょっとだけ説明をもらいましたが、特別印象に残る話でもありませんでした。というのも、僕自身は自分自身の生き方の哲学には相当な自信を持っており、それは様々な価値観を吸収し、その上で自分の価値観を創り上げてきたところから来ているので、ちょっとやそっと新たな価値観を提示されたところで(そもそもほとんどの価値観は既知である)そう簡単に揺らぐものではないからです。残念ながら、彼の説明には、魂を揺り動かすような強さがありませんでした(とはいえ、全くナンセンスな話をしていたわけではありません)。「教行信証」に感銘を受けたのであれば、もっとそれを自分に引きつけて解釈し、自分自身の言葉で説得的に説明すればいいのに、と思いました。素晴らしい話し手というのは、当たり前の内容のことを話すにも、自分の頭でしっかり考え納得し、その人の血が通った言葉にして語るので、そこには魂があるし人の心も揺さぶるものだと思うのです。
彼の弱さは他の部分にも感じました。僕が自分なりの意見を述べたことに対し、それを少しも批判することなく「そうですよねー」と言ってしまうところ。その言い方や雰囲気から、本心ではなさそうだな、と感じました。つまり、こちらの意見に合わせてしまっているということです。残念ながら僕はそんな適当な肯定は望んでいません。僕が自分の意見を肯定されてうれしいのは、相手が好きな人(尊敬する人も含む)のとき、もしくは、相手が自分の言わんとすることをきちんと理解していることが確認できるとき(僕の意見を相手自身の言葉で語ってくれたときなど)、くらいなものです。「おー。そんな考えもあるかー」と僕を驚かせてくれるくらいな意見を言ってくれれば、彼の評価もちょっとは変わったかもしれないのですが。。ついこの前話した哲学科の友人との対話の方がよっぽど刺激的でした。
彼には、「信念を持ってるのですね」とか「色々考えてるのですね」と言われましたが、特に最近は苦労も多いのでそりゃ色々考えますよ、当然。社会的には、不運と不幸が重なっているにも関わらず、人生投げ出さず生きていられるのは、社会や組織に捉われない自立した価値観をある程度身につけているからに他なりません。まぁともかく、明るい哲学人ではありたいと思っていますね。
最後に、アドバイスとして、東大には哲学科とか、仏教を学んでいる学科とかもあるだろうから、そういう人たちが沢山いるところに行った方がよいのではないか、ということを言いました。ここ(中央食堂)には自分のことで忙しい人が多いだろうし、僕みたいにこのような事柄に特別興味がある人も多いとは思えないからです。今思うと、このアドバイスが適切だったかどうかはわかりません。なぜなら、彼が哲学科や仏教系の学科の人たちに話をしても、レベルが低くて相手にされないかも知れないので(もしくは打ち負かされる)、普段あまりこのことについて考えないけれど多少の関心はある(人間ならば誰でも少しは関心はあるものでしょう。関心がない、と言う人は、あえて避けているのかもしれない)くらいの人の方が、話を優位に進められてよいのかも知れないからです。
何にせよ、僕が人生について強く関心を持っている人であり、日頃からそのことについて深く考える哲学人であったおかげで、話の主導権は終始僕が握ってしまいました。とはいえ、僕が完全勝利したというのは早計で、学食にいる大勢の学生の中から僕に目をつけた、ということは、僕の内面やら性格を読まれてしまったわけです(一人でいる人に適当に声をかけただけかも知れないけれど)から、彼の同類(?)を見つける眼識にもある程度確かなものがあるのでしょう。その読みの程度がちょっと甘かったというだけのことだと思います。
そんな風にして終わった、怪しい人との会話でしたが、去るときの彼がちょっとしょぼくれて見えたのは内緒です。
今日はその後にもクリスチャンの女性3人組にも声をかけられましたし、実はおとといにもクリスチャン女性3人組に声をかけられたのですが、何か僕はそういうのに声をかけられやすい雰囲気を醸し出しているのでしょうか(笑) クリスチャンの方は、まともに話も聞かずに逃げてきたのですが、今度会ったら「どんなことしてるんですか?」と逆に質問してみようかと思います。しかし、なんでいつも女性3人組なんだろう。